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自分は、思い出という贈り物を紡げているだろうか。

こどもの頃、
「お誕生日」に親が用意してくれるケーキやごちそうの他に
楽しみなものがあった。

田舎の、親戚のおばさん達が郵便で必ず送ってくれる、段ボール箱。

ひとかかえもある大きさ。
おしゃれなイマドキのギフト箱でなく、もちろんAmazon箱でもなく、
ラッピングも何もされていない正真正銘の、「段ボール箱」。

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その中に、リンゴとか フルーツの缶詰とか 笹だんごとか
(いわゆる田舎のおばさんが、東京に住む親戚の子に
 「こどもはこういうのは喜ぶだろうかね」と想いを凝らしながら詰めるもの)
と一緒に丁寧に詰めてあったのが 『児童書』 だった。

『ぐりとぐら』 が入っていた。
『ないたあかおに』 が入っていた時もあった。
『いやいやえん』 もこの段ボールから出てきて読んだ。

いちども会ったことがないおばさんなのに、
こちらの年齢をちゃんと知っていて、
「年齢にあった字の大きさ」の、名作図書を入れてくれた。

小学校高学年になると、字も少し小さくなって、
『エルマーのぼうけん』 とか
『十五少年漂流記』 といった図書が送られてきた。

田舎の、たくさんある分家の、
どのおばさんが送ってくれたかまったく覚えていないが、
贈られた本はぼろぼろになるまで読んだ。

その本の一冊一冊、一ページ一ページが、
こどもの頃の私の思い出をつくってくれた。
少しおおげさだけど、そう思っている。

何十年も時は流れて、いまは自分が「親戚のおじさん」になっている。
だが、私は今、かつて自分がもらったような“思い出の宝物”を贈っていない。

どういうわけか、そういう本を喜んでもらえないのが、その理由。
Wii とか、 DS とか、PSPとかの方が喜ばれてしまうのが、悲しい現実。
(で、つい、そういったものを贈ってしまう)

いまのこどもたちは、たしかにそういったものに夢中になってくれる。
だがそれは、自分がかつてもらったような思い出になるだろうか、
自分は、贈られた貴重な “なにか” をきちんと
次へ紡ぐことができているだろうか、と気になっている。

せめてもの救いは、数年前に贈った
『ナルニア国』と『ハリーポッター』を多少なりとも読んでもらえたらしい、
ということ。

彼らがもう少し大きくなったときに
図書とは形で輝く“思い出”を贈ることができたら、とも思っている。
0403 #プレゼント

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最終更新日:2014-04-03 10:19

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